■こういう生き方、どうでしょう?
メシ代も、宿代も、ガマンすれば済む金は使わない。有り金は、移動費(&日々の最小限の生活費)に回す。何日滞在できるかが勝負。当然、風呂なんて入らない。水浴びで十分だ。行きたい所に行く。釣れるまで釣る。野宿。釣れた小魚を食って空腹をまぎらわす。橋の下で寝る夜には、死体(エサ)に間違われ、カニにたかられた。ブチ切れて、片っ端からツブした。陽が昇り、沈み、繰り返し、ついにその瞬間が訪れる。「見たか、オシャレ野郎ども!!」。帰りの鈍行列車、隣のお婆さんが話しかけてくる。汚い身なりを見て、桃をくれた。甘かった。「ウマすぎる」。また日雇いで働く。そしてまた、釣り(遠征)に行くーーー。
イカレてる。ちょっと普通じゃない。でもこれは、釣り竿さえ握っていなければ、どこにでもいるような若者の話なのだ。そして、たぶんきっと不世出の釣りバカの話である。
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その若者と釣り雑誌「Rod and Reel」(2018年休刊)の初めてのコンタクトは、一枚の読者投稿ハガキだった。編集部・望月は当時2008年夏ごろを振り返り、こう語る。
「シンガポールのマーライオンを背景に、ターポンを釣ってる写真。特に何の解説もなく、ハガキにそれだけが貼られていたんです。逆にそれが、強く印象に残りました」
実際に彼と編集部員が会ったのは「岸釣りスター誕生‼︎」という誌上オーディション企画の実釣審査でだった。2009年夏、1カ月間でアカメ、イトウ、ビワコオオナマズの日本三大怪魚を手にし、書類審査をパスした彼は、12月の雄蛇ヶ池での実釣審査でも47.5cmを釣った。それも、ビッグベイトで。当時の編集長・稲葉は、誌面で彼をこう評した。
「釣りに迫力がある。集中した時のオーラ、緊張感と、いい意味で殺気を感じた。顔もいい」
トータルで頭ひとつ抜けていた。しかし審査の結果、彼に与えられたのは「岸釣りスター」ではなく、「審査員特別賞」だった。企画は「岸釣りスター:該当者なし」という結末で幕を閉じた。
「先が見えない」
それが編集部の結論だった。「先がない」という意味じゃない。「釣り業界で食っていく」というビジョンや、「釣りで成り上がってやろう」といった、他の候補生のような野心が、彼には感じられなかったからだ。
けっして釣りの“プロ”になりたいわけじゃない。でも、釣りへの情熱はだれにも負けない……。矛盾した、ナニカ。本人ですらうまく説明できない、ナニカ。何がしたいのかわからないけど、何かせずにはいられない……実釣審査を終えて、記者のインタビューに対する彼のコメントが、これだった。
「幸せな男には、負けません」
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この記事を読み終えたとき、彼の青春を、あなたはどう思うだろうか。釣り人にとって幸せとは、何だろう?
メシは我慢。風呂もいらない。野宿。
ゼイタクは、釣りに必要ないから。
オシャレ野郎にはなれなかったけれど、
釣りは、仲間のだれよりうまくなった。
でも、なぜかモテなかった。
どこにでもいる 若者。
どこにもいない 釣りバカ。
愛車はセブン、でも釣りには軽トラ。
いつも頭にタオルを巻いた、変なヤツ。
それが、阿部洋人だった。
■肯定的にいうなら自由。否定的に言えば、逃避。
当時、仙台に住んでいた筆者が彼に出会ったのは、2008年の冬だった。
「夏に、青春18きっぷでビワコオオナマズを釣りに関西へ行ってきたんですよ。1日2300円で、JRの鈍行列車ならどこまでも乗り放題、っていう切符です。みんな、何かしようとするとき、『金ない』だとか何とか、テキトーに理由つけて逃げるじゃないですか。だからオレは、いま住んでる宮城から往復4600円だけで、憧れの怪魚が釣れることを証明してやろうと思ったんです」
いうまでもなく、べつにだれも「証明してくれ」とは頼んではいない。
「一応、小麦粉と醤油、あと携帯コンロだけは持っていったんですよ。元山岳部として。で、小麦粉を醤油で練って、焼いて食べたら、死にそうになりました。塩辛すぎて」
もう数千円持っていって、コンビニで弁当買えばいいんじゃね?という冷静なツッコミは、してはいけない。
「帰り道、電車の隣の席のお婆さんが、小汚い自分を見て、桃をくれたんです」
絶食&野宿をしながら、彼は憧れのビワコオオナマズを手にした。
「(中略)この時代、ネットで調べたり、ブログをやってる人に聞いたりすれば、ポイントとか、すぐわかっちゃうじゃないですか。だから自分は情報なしで、飛び込んだんです」
小さい頃から釣りが大好きだった。近所の小物釣りからスタート。バスブームの洗礼を受け、中学、高校とルアーフィッシングに夢中になった。大学入学後は、海外にまでフィールドは広がった。時に常軌を逸した節約をしながら、日本狭しと、全国を飛び回った。飲まず食わずで釣りをした。「どこまで自分を追い込めるか」に酔い、「釣り死ぬ」(限界まで釣りをして動けなくなる)ことをカッコいいと思っていた。アカメを求め、20kgのリュックを背負い約2週間、浦戸湾を歩いて開拓した。野宿し、カニにたかられながら。同行した友人は、本当に病院に運ばれ、このご時世に「栄養失調」と診断された。
一方で彼は、ケチとも違った。愛車はスポーツカー(RX-7)。
「ちっちゃいころから欲しかったんで。大学入学後、死ぬ気で駐車場のバイトをして、現金一括で買いました」
でも、釣りには実家の軽トラでやってきた。高校時代には山岳部に所属し、心身ともに屈強だった。ブルーハーツが好きだった。顔も悪くない。でも、なぜかモテなかった。
■「ひと言でいうと、女の子にモテたかったんじゃないですか?(親友)」
「あれほど釣りに没頭して、何がしたかったんだろう?」。後日、そんな問いかけに、同い年の、最も親しかった釣友は、そう答えた。彼女いない歴=年齢。23歳の誕生日は、筆者と上海で迎えた。手に入らないナニカを埋め合わせるように、彼は未知の怪魚を求めた。
「釣りならだれにも負けない。のにーーー」
……だれだって、体裁とか、見栄とか、コンプレックスとか、なんだかんだあって、彼もまた様々な問題を抱えながら、水辺に立っていたんだろう。ナニカを求め、そのナニカが何なのかもわからず、だから命を燃やすように、釣り狂った。ためて、ためて、ためて、爆発。あえていうなら、ナニカ=女の子。でも、それだけじゃない気がして、だけどそれは、手にできないからわからなくて……。良くも悪くもヒマだった。だから彼は、毎日のように釣り場へと向かった。釣りのときだけは、そんなナニカへの焦燥から、逃げ出せたんだと思う。そして、釣りだけが、ますますうまくなっていく。……大学卒業後、彼は、日雇で働いては釣り(遠征)に行く、という生活を送るようになる。
「釣りなんて、これ以上、うまくならなくていいんですよ」
彼はときどき、そんなことを口にした。釣り竿で鳴らすパンクロックは、そのまま、もの哀しいブルースでもあった。きっと、(ここからは推測でしかないけれど)釣りを究めたら、ナニカになると思っていたのかもしれない。でも、何にもなんなかった。釣って、釣って、釣って、すべてをぶつけ、釣りまくった末に、「あ、釣りって遊びだったんだ」と気がついたーーー。
釣り漫画の主人公は、歳をとらない。でも、現実世界で、時間は待ってはくれない。だから(2011年の)8月上旬、電話で「彼女ができた」と聞いたときは、ホッとした。24歳、彼にとって初めての彼女だった。そして、その電話が、筆者が彼の声を聞いた最後になった。
<阿部洋人 釣浪記>
1987年5月 宮城県に生まれる(幼少期より釣りに親しむ。小学校時代からバス釣りにハマる)
2008年 2月 東南アジアを約2か月間、釣りで放浪する
2008年 6月 初めてビワコオオナマズを釣る
2009年 8月 初めてアカメを釣る
2009年 9月 初めてイトウを釣る(「岸釣りスター誕生」企画にて、1か月で日本三大怪魚制覇を達成)
2010年 5月 中国の怪魚「ガンユイ」を釣る。おそらく日本人初
2011年 12月 タイの巨大エイ「パックラベーン」を釣る
2011年 5月 地元宮城で「雷神」(メーターオーバーの雷魚)を釣る
2011年 8月お盆 ビワコオオナマズ遠征(これが最後の遠征となった)
2011年8月26日 病気(急性リンパ性白血病)が発覚。即日入院
2011年9月16日 永眠
■旅立ちの名に刻む“竿”一文字。青いサクラよ、空に咲け‼︎
式場での再会。突然すぎる悲報に、全国から釣友が駆けつけた。筆者を含め、第一報を受けた多くの者が「自殺か?」と思った。純粋すぎるがゆえに、感じやすい男だった。一方で、殺しても死なないような、屈強な男だった。……遺影は、去年(2010年)の夏に筆者が撮影した、アカメとの写真だった。「遺影にはこの写真を」。彼女にだけ、そう伝えてあったらしい。
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沈没した。足のつかない、深い闇を泳いだ。満ち潮で閉じ込められる。酸欠の恐怖が迫る。眼前を、ドブネズミが流されていく……ズブ濡れの僕らが、“生と死のスキマ”と呼んだ、あの場所。引き潮(朝)まで、ただただ耐えた、あの夜。日本国内で、あんなにワクワクできる冒険ができるとは思わなかった。“アカメの巣”、漫画の世界は、実在したのだ‼︎
「ふたりで獲った一本ですから。2分の1匹、ってとこですね」
おまえはそういってたけれど、自分で獲る以上にうれしい魚が存在することを、オレは知ったよ。連れていってくれて、ありがとう。
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戒名、清峻竿洋居士。病名、急性リンパ性白血病。2011年9月16日未明。入院から3週間、青春を竿に賭けた若者は、三途の川へと旅立った。
「オレのことを知ったら、みんなの釣りが楽しくなくなるんで」
釣友たちに、別れは告げずに。
Text by Kozuka Takuya