青春を竿に賭けて ~とある釣りバカの一代記~

このレポートは2011年11月末発売の「Rod and Reel/地球丸(2012年1月号)」に掲載された記事に、必要最小限の加筆訂正を加えたものです。

こういう生き方、どうでしょう?

 メシ代も、宿代も、ガマンすれば済む金は使わない。有り金は、移動費(&日々の最小限の生活費)に回す。何日滞在できるかが勝負。当然、風呂なんて入らない。水浴びで十分だ。行きたい所に行く。釣れるまで釣る。野宿。釣れた小魚を食って空腹をまぎらわす。橋の下で寝る夜には、死体(エサ)に間違われ、カニにたかられた。ブチ切れて、片っ端からツブした。陽が昇り、沈み、繰り返し、ついにその瞬間が訪れる。「見たか、オシャレ野郎ども!!」。帰りの鈍行列車、隣のお婆さんが話しかけてくる。汚い身なりを見て、桃をくれた。甘かった。「ウマすぎる」。また日雇いで働く。そしてまた、釣り(遠征)に行くーーー。

 イカレてる。ちょっと普通じゃない。でもこれは、釣り竿さえ握っていなければ、どこにでもいるような若者の話なのだ。そして、たぶんきっと不世出の釣りバカの話である。

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 その若者と釣り雑誌「Rod and Reel」(2018年休刊)の初めてのコンタクトは、一枚の読者投稿ハガキだった。編集部・望月は当時2008年夏ごろを振り返り、こう語る。

「シンガポールのマーライオンを背景に、ターポンを釣ってる写真。特に何の解説もなく、ハガキにそれだけが貼られていたんです。逆にそれが、強く印象に残りました」

 実際に彼と編集部員が会ったのは「岸釣りスター誕生‼︎」という誌上オーディション企画の実釣審査でだった。2009年夏、1カ月間でアカメ、イトウ、ビワコオオナマズの日本三大怪魚を手にし、書類審査をパスした彼は、12月の雄蛇ヶ池での実釣審査でも47.5cmを釣った。それも、ビッグベイトで。当時の編集長・稲葉は、誌面で彼をこう評した。

「釣りに迫力がある。集中した時のオーラ、緊張感と、いい意味で殺気を感じた。顔もいい」

 トータルで頭ひとつ抜けていた。しかし審査の結果、彼に与えられたのは「岸釣りスター」ではなく、「審査員特別賞」だった。企画は「岸釣りスター:該当者なし」という結末で幕を閉じた。

「先が見えない」

 それが編集部の結論だった。「先がない」という意味じゃない。「釣り業界で食っていく」というビジョンや、「釣りで成り上がってやろう」といった、他の候補生のような野心が、彼には感じられなかったからだ。

 けっして釣りの“プロ”になりたいわけじゃない。でも、釣りへの情熱はだれにも負けない……。矛盾した、ナニカ。本人ですらうまく説明できない、ナニカ。何がしたいのかわからないけど、何かせずにはいられない……実釣審査を終えて、記者のインタビューに対する彼のコメントが、これだった。

「幸せな男には、負けません」

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この記事を読み終えたとき、彼の青春を、あなたはどう思うだろうか。釣り人にとって幸せとは、何だろう?


メシは我慢。風呂もいらない。野宿。ゼイタクは、釣りに必要ないから。オシャレ野郎にはなれなかったけれど、釣りは仲間のだれよりうまくなった。でも、なぜかモテなかった。どこにでもいる若者。どこにもいない釣りバカ。愛車はセブン、でも釣りには軽トラ。いつも頭にタオルを巻いた、変なヤツ。それが、阿部洋人だった。

メシは我慢。風呂もいらない。野宿。

ゼイタクは、釣りに必要ないから。

青春18きっぷを使い、住んでいた宮城県から総予算4600円で手にした初めてのビワコオオナマズ(2008年)
初めての海外放浪、タイのブンボラペット湖でプラー・シャドー(トーマン)を手にする(2008年)

オシャレ野郎にはなれなかったけれど、

釣りは、仲間のだれよりうまくなった。

北海道遠征。子供にはやたら好かれ、「師匠」と呼ばれていた(2009年)
上海遠征で、おそらく日本人初となるガンユイを手にする(2010年)

でも、なぜかモテなかった。

釣りに行くときは、軽トラ(2009年)
釣り以外は“セブン”(RX-7)。駐車場誘導のバイト代で、現金一括購入(2009年)

どこにでもいる 若者。

どこにもいない 釣りバカ。

バスロッドで40kgオーバーのバラムツ。オムツを履いて食す……真似して注目を集めるフォロアーを多数生んだ。発想が斬新で(大して注目されていないのに)早かった(2010年)
東京・大田区の呑川でひと騒動。一躍“時の人”となり、以後、国内でのアリゲーターガー捕獲劇は、メディアの人気コンテンツとなる(2010年)

愛車はセブン、でも釣りには軽トラ。

いつも頭にタオルを巻いた、変なヤツ。

前例があるチャレンジには新規性を。「岸釣りスター誕生!!」の書類審査をキッカケに、ならばと期限設定。1ヶ月間で日本三大怪魚制覇を達成(2009年)
“雷神”と呼んだ、メーターカムルチー。頭に対しての異様なまでの目が小ささが、老成レベルを物語る(2011年7月)

それが、阿部洋人だった。

愛用したのはデポルティーボ170H-2+スピードマスター。40kgのバラムツや雷神などバスロッド・イズ・ノーリミットを体現。2019年、「HT-7/8」の7フィートモードにて“再現”された。
フロッグは年始に一個だけチューンし、一年かけて歯形でボロボロにしていくのを楽しんだ。写真は2011年に育てていた白いA.M.G.R。歯形が増えることは、もうない。Batrachusの「メモリアルホワイト」に物語を繋ぐ

■肯定的にいうなら自由。否定的に言えば、逃避。

当時、仙台に住んでいた筆者が彼に出会ったのは、2008年の冬だった。

「夏に、青春18きっぷでビワコオオナマズを釣りに関西へ行ってきたんですよ。1日2300円で、JRの鈍行列車ならどこまでも乗り放題、っていう切符です。みんな、何かしようとするとき、『金ない』だとか何とか、テキトーに理由つけて逃げるじゃないですか。だからオレは、いま住んでる宮城から往復4600円だけで、憧れの怪魚が釣れることを証明してやろうと思ったんです」

 いうまでもなく、べつにだれも「証明してくれ」とは頼んではいない。

「一応、小麦粉と醤油、あと携帯コンロだけは持っていったんですよ。元山岳部として。で、小麦粉を醤油で練って、焼いて食べたら、死にそうになりました。塩辛すぎて」

 もう数千円持っていって、コンビニで弁当買えばいいんじゃね?という冷静なツッコミは、してはいけない。

「帰り道、電車の隣の席のお婆さんが、小汚い自分を見て、桃をくれたんです」

 絶食&野宿をしながら、彼は憧れのビワコオオナマズを手にした。

「(中略)この時代、ネットで調べたり、ブログをやってる人に聞いたりすれば、ポイントとか、すぐわかっちゃうじゃないですか。だから自分は情報なしで、飛び込んだんです」

 小さい頃から釣りが大好きだった。近所の小物釣りからスタート。バスブームの洗礼を受け、中学、高校とルアーフィッシングに夢中になった。大学入学後は、海外にまでフィールドは広がった。時に常軌を逸した節約をしながら、日本狭しと、全国を飛び回った。飲まず食わずで釣りをした。「どこまで自分を追い込めるか」に酔い、「釣り死ぬ」(限界まで釣りをして動けなくなる)ことをカッコいいと思っていた。アカメを求め、20kgのリュックを背負い約2週間、浦戸湾を歩いて開拓した。野宿し、カニにたかられながら。同行した友人は、本当に病院に運ばれ、このご時世に「栄養失調」と診断された。

 一方で彼は、ケチとも違った。愛車はスポーツカー(RX-7)。

「ちっちゃいころから欲しかったんで。大学入学後、死ぬ気で駐車場のバイトをして、現金一括で買いました」

 でも、釣りには実家の軽トラでやってきた。高校時代には山岳部に所属し、心身ともに屈強だった。ブルーハーツが好きだった。顔も悪くない。でも、なぜかモテなかった。

国内外を釣り歩き、履き古し、穴があいたクロックス(ラフロード)。右は新調した同じモノ

■「ひと言でいうと、女の子にモテたかったんじゃないですか?(親友)」

「あれほど釣りに没頭して、何がしたかったんだろう?」。後日、そんな問いかけに、同い年の、最も親しかった釣友は、そう答えた。彼女いない歴=年齢。23歳の誕生日は、筆者と上海で迎えた。手に入らないナニカを埋め合わせるように、彼は未知の怪魚を求めた。

「釣りならだれにも負けない。のにーーー」

 ……だれだって、体裁とか、見栄とか、コンプレックスとか、なんだかんだあって、彼もまた様々な問題を抱えながら、水辺に立っていたんだろう。ナニカを求め、そのナニカが何なのかもわからず、だから命を燃やすように、釣り狂った。ためて、ためて、ためて、爆発。あえていうなら、ナニカ=女の子。でも、それだけじゃない気がして、だけどそれは、手にできないからわからなくて……。良くも悪くもヒマだった。だから彼は、毎日のように釣り場へと向かった。釣りのときだけは、そんなナニカへの焦燥から、逃げ出せたんだと思う。そして、釣りだけが、ますますうまくなっていく。……大学卒業後、彼は、日雇で働いては釣り(遠征)に行く、という生活を送るようになる。

「釣りなんて、これ以上、うまくならなくていいんですよ」

 彼はときどき、そんなことを口にした。釣り竿で鳴らすパンクロックは、そのまま、もの哀しいブルースでもあった。きっと、(ここからは推測でしかないけれど)釣りを究めたら、ナニカになると思っていたのかもしれない。でも、何にもなんなかった。釣って、釣って、釣って、すべてをぶつけ、釣りまくった末に、「あ、釣りって遊びだったんだ」と気がついたーーー。

 釣り漫画の主人公は、歳をとらない。でも、現実世界で、時間は待ってはくれない。だから(2011年の)8月上旬、電話で「彼女ができた」と聞いたときは、ホッとした。24歳、彼にとって初めての彼女だった。そして、その電話が、筆者が彼の声を聞いた最後になった。

「釣りとか、もういいんですよ」といいつつ、彼はほぼ毎日、釣りをしていた

<阿部洋人 釣浪記>

1987年5月    宮城県に生まれる(幼少期より釣りに親しむ。小学校時代からバス釣りにハマる)

2008年 2月    東南アジアを約2か月間、釣りで放浪する

2008年 6月     初めてビワコオオナマズを釣る

2009年 8月     初めてアカメを釣る

2009年 9月    初めてイトウを釣る(「岸釣りスター誕生」企画にて、1か月で日本三大怪魚制覇を達成)

2010年 5月     中国の怪魚「ガンユイ」を釣る。おそらく日本人初

2011年 12月    タイの巨大エイ「パックラベーン」を釣る

2011年 5月     地元宮城で「雷神」(メーターオーバーの雷魚)を釣る

2011年 8月お盆  ビワコオオナマズ遠征(これが最後の遠征となった)

2011年8月26日 病気(急性リンパ性白血病)が発覚。即日入院

2011年9月16日 永眠

釣りが好きすぎた。だから、別れは告げずに。

■旅立ちの名に刻む“竿”一文字。青いサクラよ、空に咲け‼︎

 式場での再会。突然すぎる悲報に、全国から釣友が駆けつけた。筆者を含め、第一報を受けた多くの者が「自殺か?」と思った。純粋すぎるがゆえに、感じやすい男だった。一方で、殺しても死なないような、屈強な男だった。……遺影は、去年(2010年)の夏に筆者が撮影した、アカメとの写真だった。「遺影にはこの写真を」。彼女にだけ、そう伝えてあったらしい。

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 沈没した。足のつかない、深い闇を泳いだ。満ち潮で閉じ込められる。酸欠の恐怖が迫る。眼前を、ドブネズミが流されていく……ズブ濡れの僕らが、“生と死のスキマ”と呼んだ、あの場所。引き潮(朝)まで、ただただ耐えた、あの夜。日本国内で、あんなにワクワクできる冒険ができるとは思わなかった。“アカメの巣”、漫画の世界は、実在したのだ‼︎

「ふたりで獲った一本ですから。2分の1匹、ってとこですね」

 おまえはそういってたけれど、自分で獲る以上にうれしい魚が存在することを、オレは知ったよ。連れていってくれて、ありがとう。

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戒名、清峻竿洋居士。病名、急性リンパ性白血病。2011年9月16日未明。入院から3週間、青春を竿に賭けた若者は、三途の川へと旅立った。

「オレのことを知ったら、みんなの釣りが楽しくなくなるんで」

釣友たちに、別れは告げずに。

「150クラス、“潜水艦”は釣れるまで、詳細は仲間うちだけの秘密にしておきましょう。もっとデカいのがいるんで」。彼は2011年夏(9月)も、仲間たちとさらなる巨大アカメに挑む予定だった。8月末、突然、「行けなくなった」とだけ連絡が入った。「ちゃんと理由を説明しろ」と腹を立てた仲間もいたが、病気の発覚も、入院についても、ついぞ語らなかった。……何も知らない仲間たちは、やり遂げた。仲間たちが彼の悲報を受けたのは、上写真が撮影された翌朝のことである

Text by Kozuka Takuya

このレポート記事は2011年11月末発売の「Rod and Reel/地球丸(2012年1月号)」に掲載された追悼記事に、モンスターキス公式HPに新たに掲載する内容として必要最小限の加筆を加えたものです。

東北地方出身。株式会社モンスターキス副社長(名誉職)。幼き頃から釣りに非凡な才能を発揮し、アルバイトができない中学時代までは管釣りトーナメントの商品を換金して遠征費用に充てていた。高校時代には山岳部でインターハイ出場。登山にルーツを思わせるストイックな姿勢と、圧倒的な釣りセンスは、出会った者たちに強烈な印象を残す。2011年、急性リンパ性白血病で24歳の若さで急逝。独自の旅スタイルやフロッグ理論は、モンスターキスの製品に形を変えて生き続け、YouTube上に残るアリゲーターガーの釣獲ドキュメンタリー映像は、没後10年以上経ってなお人々に影響を与え続けている(2022年現在90万再生)